第1回「フィランソロキャピタリズム~金持ちは世界を救う?」

11.01


2008年11月

CSOネットワーク 共同事業責任者 今田 克司


フィランソロキャピタリズム」が話題になっている。 この「フィランソロピー」と「キャピタリズム」をあわせた造語、もとは2006年に雑誌「エコノミスト」上で同誌のマシュー・ビショップが新しい形のフィランソロピーとして紹介したものだ。 ごく簡単にいえば、昨今興隆めざましい、ビジネスの世界の論理でグローバルイシューへの取り組みをやりましょう、その方が物事は解決しますよ、という一連の動きを指すものだ。 一体このフィランソロキャピタリズム、どういうものなのだろうか。

ビジネスの尺度をフィランソロピーへ

フィランソロピーは、民間による社会事業への資金や物品などでの支援活動を指すことばとして使われている。 これを提供するのは企業、財団、個人が含まれ、個人で財を成してそれを慈善事業に投じたロックフェラー、フォード、カーネギーなどの名前がフィランソロピストとして思い浮かぶ。

これにキャピタリズム(資本主義)をあわせたフィランソロキャピタリズムの実践家(フィランソロキャピタリスト)の象徴はビル・ゲイツだ。 ロックフェラーもカーネギーもゲイツも、大金持ち(スーパーリッチ)であることには変わりないが、フィランソロピーの世界に明確なビジネスの尺度をもちこもうとするところにフィランソロキャピタリストの特徴がある。

ここでいうビジネスの尺度とは、戦略と選択、綿密な計画と進捗度や成果の測定、計算されたリスク管理などで、スーパーリッチが財を成したビジネスのやり方そのものを、フィランソロピーにもちこもうとするものだ。 フィランソロキャピタリストは一種の社会投資家で、どこにどのような資源を投入すればどういうリターンがどのタイミングで戻ってくるかを計算しながら動く。 必要であれば、政治にも関与し、活動が結果につながるように政治に働きかける。 旧来のフィランソロピーが、慈善活動ということばから連想されるように、戦略や計画といった思考形態や政治とのかかわりとはあまり縁のない活動だったこととの対比が見てとれる。

ビル・ゲイツ以外でよく話題にのぼるフィランソロキャピタリストに、投資王ウォレン・バフェット、投機家から転じてオープン・ソサエティ・インスティ テュートなどで民主化活動に力を入れるジョージ・ソロス、eBay 創業者のジェフ・スコール、ビジネスの世界出身ではないがビル・クリントンなどがあげられる。 また、U2のボノと相棒のボビー・シュライバーは、NGO、DATAを立ち上げ、G8サミットなどの場で貧困解決を訴え、HIV/エイズ等の感染症問題解決のためのプロダクトREDブランドを立ちあげるなど、フィランソロキャピタリストのなかでも異色の存在だ。

フィランソロキャピタリストにとって、同じような志向性と戦略マインドをもった社会起業家は「投資先」として好ましい存在だ。 また、CSR(企業の社会的責任)活動のなかでも、企業活動の本業の部分で社会や環境に対する負荷を少なくし、それを新たなブランディングやマーケティングにつなげる動きとフィランソロキャピタリズムの親和性は高い。 一方、従来型のフィランソロピーや企業PRに重きをおくCSRとは趣を異にしている。

フィランソロピーの反論

こういった新しい動き、そしてフィランソロキャピタリズムという命名は、助成財団を中心とした従来のフィランソロピーの世界に大きな挑戦状を突きつけている。 これまでのフィランソロピーは、長期的視野がなく、戦略的思考に欠け、成功の指標があいまいで、結果による活動評価が見られないというのがフィランソロキャピタリズムの「新しさ」に対する「古さ」の含意だからだ。

これまで長年にわたってグローバルな諸課題にとりくんできた助成財団は、これらの項目のそれぞれに反論するだけの論拠をもっている。 たとえば、長期的視野や戦略的思考という意味では、多くの財団が中長期活動計画によって助成活動を実施しているし、モニタリングや評価の指標にも日進月歩が見られる。 しかし、単年度主義、事業助成のみで活動の母体となる団体の能力強化の支援が薄い、報告書を要求する以外の成果の測定に不熱心など、日本にもあてはまる多くの問題点は、海外でも指摘されている。

しかし、こういった新旧論争とは別に、フィランソロキャピタリズムに対する最大の反論は、現代のグローバル社会のさまざまな歪みを生み出してきた資本主義 の論理にのっかって財を成した一握りのスーパーリッチが、今後の世界の命運を左右するような施策を繰り出す資格があるのか、というものだ。 フィランソロピーの世界は、長い年月をかけて、活動の受益者が施策に意見を言い、それを形成するプロセスに参加することを奨励してきた。 政府や自治体の政策形成がより参加型に変遷し、市民の意見や考えを取り入れるような仕掛けが生み出されているのと並行して、フィランソロピーの世界でも、 この分散型・参加型志向性は進んでいる。

ところがフィランソロキャピタリズムは、「金にモノを言わせて」の世界だ。 「金にモノを言わせて」悪いことをしようというのではないからいいではないか、とは単純には割り切れない。 スーパーリッチが、独自の価値観と達成志向をもって、政府や国際機関と同等の力をもちつつグローバルな課題に取り組むのを、私たちは諸手をあげて歓迎すべきなのだろうか。

「自制」の提唱

CSOネットワークにとってはおなじみのマイケル・エドワーズは、Just Another Emperor – The Myths and Realities of Philanthrocapitaismのなかで、フィランソロキャピタリズムにかなり批判的な論陣を張っている。

エドワーズは、フィランソロピーが資金提供という「権力」行使の活動であるからこそ、そこには謙虚さが必要だとしたうえで、フィランソロキャピタリズムに対して「自制」の提唱を呼びかけている。 そのなかには、フィランソロピー活動の「学び」に時間と労力を割くこと、活動の透明性とアカウンタビリティを最大限確保すること、受益者の意見を尊重することなどが含まれる。

フィランソロキャピタリズムという新しい現象の功罪やその可能性についての議論は、今後も加速の一途をたどりそうだ。日本の市民社会も、これに注目していく必要があるだろう。

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