市民運動の『止水板』としての評価

NPO運営サポート・あの屋
佐藤綾乃さん


私がDE研修に参加したのは、募集概要を読んで「今の自分には必要なのはこれだ!」と強く感じたからです。東京までの往復交通費が浮くという下心も、あるにはありました(笑)。ただ、当時は「評価」ではなく「伴走」というキーワードに飛びついて、「評価」自体は何だか雲の上にある「査定」のようなイメージでした。当時、私は中間支援者として組織基盤強化のために団体に伴走支援をしていたのですが、組織診断後のプロセスとして具体的にどういうサポートをすべきか悩んでいました。仮に私がリードして事業計画を作れば、団体側は「それで行きましょう」というお任せ姿勢に傾くことが予想される。それが本当に団体にとってよいことなのか悩み、相談先もなく苦しんでいたところに、友人がDE研修への応募を勧めてくれたのです。

私の前職である福祉や障害当事者運動の活動の中で実感することですが、社会を変えるには、小さな個人の声がやがて社会の声になり、それが市民運動へと変わり、しくみとして法整備されるという一連の流れがあります。DE研修を経て腑に落ちたのですが、評価の役割の一つは、個人の声が社会の声になった段階で、広く社会に対し意義をきちんと見せられるようにすること。その声が市民権を得て、逆流したり後退したりしないための『止水板』になり得ます。そして、次に社会の声が法整備の段階にたどりつくまでには、更に膨大なエネルギーが必要になる。評価は、ここにあるラインを越えていくためにも必要です。福祉や当事者運動は、まず現場の積み上げがあり、法制度や条例は一つ一つの声や事例の積み上げの結果です。最近の事例ではLGBTの運動が挙げられるでしょう。法制度を一つ成立させるのにかかる労力は莫大なもので、徒手空拳では難しい。それを考えると、評価にかけるコストや労力は決して高いものではないと思います。

 

役立つものは、みんなが使い倒せばよい

少し前に、地元である北海道旭川市で評価をテーマに勉強会を行った際、評価が多くの誤解に基づいて語られているのを目の当たりにし、必死に評価を「かばっている」自分に気づきました。以前の私のように評価をよく知らない立場からすると、「評価=スコアカード」のイメージを持つのも無理はないのですが、「評価は、数値化されないと意味が無いんだから、人間がやらない方が良い」という意見も聞かれました。でも、それは違う。評価は「evaluation=価値を引き出す」が本義です。それが分かりやすく伝えられなくて、自分の力不足を悔しく感じました。評価が「価値判断」であることはあまり理解されていない。けれども、「評価」という単語は日常的に使われていて、何となく成果主義や数値一辺倒のイメージが浮かぶのだと思います。人に例えると、「意識高い系の都会人」(笑)と誤解されている感じでしょうか。適切な比喩かはわかりませんが、例えば高級ブランド時計には、最高の職人技が結集されていますね。だから、本当は使い倒さないともったいない。肝心なのは、「ブランド」がすばらしいのではなく、使い途の多様さや性能がすばらしいということです。じゃあ、自慢するために持つのではなく、使わないともったいない。誰にとっても役に立つものは、その技術や知恵を使い倒せばよい。評価が本当に「役に立つもの」と思われるように、評価側のイメージや文化も改める努力が必要です。カタカナ語で話される評価はやはり「意識高い系の都会人」のものですから、地域には響きません。

 

地域によって、ものの価値は変わる

旭川を拠点に動きながら、中間支援の立場からおもしろいと感じるのは、一つひとつの活動が、セクターや団体単位というより、地域にあるそれぞれの目的や課題に向けて個人単位で動いてく土壌です。一人ひとりからいろいろな活動が生まれてくる。私自身も、「社会にとってそれは良い活動か」と大上段に構えるのではなく、「その人」にとって良い活動かを起点に考えています。地域で活動する上で大切にしているのは、やはり人とのつながりと信頼関係。地域で活動する人への尊敬が前提にあります。それぞれの専門性を共に学び合うことが重要で、知識や経験の出し惜しみはNG。こういう土壌に、評価をどう活かしていくかを考えています。地域の文化や慣習によって、ものの価値は当然ですが、変わります。特定の団体のためではなく、地域全体と個人一人ひとりを見渡しながら、評価のプロセスで何を考慮し、どう対応していくのかが問われると思います。

▲地域へのこだわりが活動の土台にある▲

 

「思い立ったが吉日」人間、わが道をゆく

旭川が大好きな私ですが、ここで生まれ育ち、両親とも旭川出身という生粋の旭川人です。祖母は保守的な価値観を持つ人で、「女に大学は必要ない」という考え方でした。それは違うのでは?と思いつつも、これといった明確な夢はないまま進学。それが少しコンプレックスだったのですが、高校で何気なく手にした本で「児童福祉士」という言葉に出会い、学校に居場所をつくれない子どもに関わりたいという思いに気づき、「自分がやりたいのはこれだ!」と直感しました。性格が元々「思い立ったが吉日」「まっしぐら」な人間なので、高校卒業後の進路は、迷わず児童ソーシャルワーカーの専門課程がある東京の福祉系の大学を選びました。一方で、地元に対する思いは強くて、小学生の頃から「ここで生まれてよかった」と感じていました。それは今も変わりません。進学と就職のために東京で数年間過ごしましたが、どちらかというと勉強と修行という感覚が強く、風土の相性からいうと、このまま東京にいるとつらいなあと感じていました。旭川に中間支援の拠点『あの屋』を開いたのも、ひとつには地元で自分が根を張って生活していくためという理由もあったのです。中間支援に携わる上で、まず地域へのこだわりが土台にあります。課題感の共有や「共通言語」を持つこと、地域の伝統・習慣を大事にすること、そして旭川だからこそやらなきゃならないことを念頭に置いています。

NPO支援をしていると、「志が高い人」と言われることもあるのですが、私、実は「なりゆき」「頼まれた」以外で動いたことがないんですよ(笑)。活動を支える信念について聞かれたりもするのですが、何かやりたい人を単純に応援したいから、としか言えません。活動もプライベートも「思い立ったが吉日」タイプ。やりたいと思ったらやるなので、こういうところは仕事にも活かされているかしれませんね。仕事はもちろん大変なこともありますが、根拠はなくとも出し惜しみはしないというところで、「自信はいつでも100%」が自分のモットーです。

 

▲「自信はいつでも100%」がモットー▲

 

当事者がここにいないのはなぜか

社会に出る頃には「当事者運動にかかわりたい」という思いが強くなっていました。大学で福祉への学びを深めながら、児童相談所や児童養護施設などのボランティア活動を積み重ねていく中で、当事者の声や権利が不当に低く置かれている状況に疑問を持つようになったからです。在学時はボランティア活動やアルバイトを通じていろいろな福祉の現場の経験したのですが、自分にとって大きかったのは、子どもの権利擁護団体でのテープ起こしと児童養護施設や児童相談所での学習支援の経験です。テープ起こしは、団体が設置している相談電話の留守電に残された子どもたちのSOSの声を文字にするのですが、過酷な状況に置かれた子ども達の苦しみや悲しみの声から受けた衝撃は大きかったです。学習支援では、担当していた2人の女の子と、お互いの悩みや思いを共有しながら、共に成長し、1人とは今でも年賀状のやり取りを続けています。聞こえにくい当事者の声に耳を澄ます大切さを現場の活動で実感するとともに、同じ頃、内閣府が主催する「青少年サミット」に参加する機会がありました。同世代の若者たちと一緒に議論し、合宿しながら政策提言をつくるという単発の企画でした。関心分野も地域もばらばらな参加者が、社会の様々な問題について議論する魅力的な場。でも、私たちのグループが意見をぶつけ合って出した政策提言は「こういう場はすばらしい。だが大人たちが用意した場ではなく、自分たちの問題・課題を自ら考えるための青少年サミットを開催する」でした。こうした経験を経て、自ずと卒業論文のテーマも、子どもを擁護の対象とするだけではない、子どもの権利条約と意見表明権を軸にした権利法制に定まっていきました。

 

社会を変える力、世界が変わる瞬間を信じる

大学卒業後は、2005年に障害者の権利を実現するための当事者団体「DPI(障害者インターナショナル)日本会議」に職員として入局しました。職員になったのは偶然で、そろそろ就職先を探そうかなと思っていた矢先、当時のアルバイト先の共同オフィスで「誰かいないかな」という話し声が聞こえてきたのです。福祉大学を卒業したとはいえ、障害者分野はまったくの門外漢だったのですが(笑)。それからは、障害当事者組織の「非当事者」として、当事者が活動に専念できる環境づくりに奔走しました。総務全般をまわしながら、イベント運営、プロジェクト補助、広報活動など「なんでも屋」として鍛えられたと思います。そして何より、社会を変える力、世界が変わる瞬間を信じるという、今の自分の核にある価値観を、上司や仲間達から受け取りました。なぜ、なんのために、誰のために「それ」をするのかという問いの重要さを教えられた日々でもありました。今でも私の中で市民「活動」<市民「運動」なのは、この経験で培ったものが大きいからです。

 

DE研修で最も私の中で響いたことは、「評価は役に立ってなんぼ、使ってなんぼ」という考え方でした。これに出会わなかったら、私はたぶん評価からは離れていたかもしれません。現場で奮闘する団体にとって良いことなら、よしやろう、と気持ちが固まりました。何のための、誰のための評価なのかが何より大切で、私は見えにくい大事なものを、何らかの形にして見えるようにすることが、評価の役割の一つだと思っています。

▲発展的評価研修のみんなと一緒に▲

DE人物万華鏡

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